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1fde9509 anonymous 2023-07-16 11:27

仏教における大乗非仏説の暗黙の前提である、パーリ経典正統仏説論(パーリ経典正典論)を破折する。

一昔前の仏教学の世界においては、パーリ仏典こそ、お釈迦様(ゴータマ・シッダールタ)の唯一の直説[じきせつ]が当時のままに残された唯一の経典であることは疑い得ないものとされていた。

大乗非仏説は、パーリ仏典と大乗仏典を対比されることで、パーリ仏典の正統経典(正典)としての権威を宣揚するという目的がある。大乗仏典が誤りなのであれば、(大乗仏典ではない)パーリ仏典こそが唯一の正典なのだというロジックである。つまり、パーリ仏典を権威付けするための材料として、大乗仏典を引き合いに出しているのである。これは、パーリ仏典を引き立てるために、創作と分かりやすい大乗仏典を持ち出しているだけである。

パーリ仏典と大乗仏典の違いは、ともに後世の創作(偽のゴータマ・シッダールタ伝)であるが、パーリ仏典は創作と分かりにくい編集形式である一方、大乗仏典は創作と分かりやすい編集形式であるに過ぎない。

「あらゆるパーリ仏典はサンスクリット仏典や漢訳仏典よりも古く、ゴータマ・シッダールタ在世当時の(仏教の)教えを忠実に伝えている」という“仮説”は、21世紀現在の学会では、もはや通用しなくなっている。

下田 正弘(インド哲学者)

「『正典概念とインド仏教史』を再考する − 直線的歴史観からの開放 − 」

日本印度学仏教学会

『印度學佛教學研究 第68巻 第2号』

令和2年3月、pp.1043−1035

以下の「」内はパーリ仏典の神話である。これらは、ことごとく的外れで見当違いである。

➀「パーリ仏典およびパーリ仏典を今日に伝えるテーラワーダ(テーラヴァーダ)仏教は、お釈迦様(ゴータマ・シッダールタ)が直接説いた教えで、オリジナルの原始仏教・初期仏教・根本仏教である。

一方、大乗仏典は、ゴータマ・シッダールタの滅後約500年後に編纂された後年の創作経典である。ゆえに、仏説ではなく学ぶに値しない。」

〈破折〉

パーリ仏典の成立は、最古層でもゴータマ・シッダールタの滅後約200年、大半は仏滅後約300年から400年後に編纂されている。一方、大乗仏典はゴータマ・シッダールタの滅後約500年後の成立であり、年代的にそんなに大きな差はない。少なくとも、一方が直説で、もう一方が創作などと言えるほどの差ではない。

パーリ仏典に記されている「結集」は、自らの経典の正統性を権威付けるためのフィクションであり、史実である証拠は存在しない。パーリ仏典も大乗仏典も、同様に作者は不明である。

そもそも、宗教上の経典に限らず、昔誰かの手によって書かれた文献が、創作で書かれたものか、史実に基づく記憶によって書かれたものか、あるいは創作と記憶の混合に基づく作品かは、出土品ではわからないし、史実に基づく記憶の記録と創作を識別する方法も存在しない。ある歴史上の文献あるいは文書が、記憶に基づくものか、創作に基づくものかを識別する確実な証拠を得る方法というものは、文献学では原理的に存在しない。それらは、いくら文献を眺め読み込んだとしても、仮定ができるのみで、実際のところはわからない。つまり、経典の真偽は、文献学的には答えの出ない問題である。

➁「ゴータマ・シッダールタはパーリ語で教えを説かれた。それがそのまま口伝され、誤りなく書き記された経典はパーリ仏典およびテーラワーダ仏教のみである。ゆえに、パーリ仏典はゴータマ・シッダールタの直説[じきせつ]にして金口[こんく]である。

一方、大乗仏典はサンスクリット語や漢語などに翻訳されている翻訳経典であり、ゴータマ・シッダールタの教えが正しく伝わっていない。」

〈破折〉

パーリ語もゴータマ・シッダールタの用いたオリジナルの言語(自然言語)ではなく翻訳言語であり、サンスクリット語と同様に、経典翻訳用の人工的言語である。テーラワーダ仏教では、とにかく時代が古いことが真実の証拠だとするが、漢訳の大乗仏典においてはパーリ語よりも古い翻訳も存在する。ゆえに、古さを正統性の唯一の基準として争うなら、パーリ仏典は大乗仏典にいくらでも負けてしまうことになる。

K.R.ノーマンおよびO.フォン=ヒニュニーバによれば、現在利用可能なパーリ語仏典の写本は、ほとんどが18世紀から19世紀のものであり、極めて近年のものである。

(von Hinüber 1983,78; 1994,188; Geiger and Norman 1994,XXV)

しかも、これらのパーリ仏典の写本がどのような過程をたどって現在に至ったのかについての情報がほとんど存在しないため、近代(18・19世紀)以前のパーリ仏典の足跡は、パーリ仏典の写本自身からは知り得ない。

皮肉にも、漢訳の大乗仏典のほうが歴史的資料としての価値は高いと言える。漢訳の大乗仏典の諸経典は、『道安録』を起点とするなら4世紀以降のパーリ仏典の写本よりよっぽど古い時代から、その翻訳状況の記録とともにその伝承過程が記録されている。パーリ仏典の歴史的資料としての価値には、漢訳仏典と比較しても、かなり限界がある。パーリ仏典が、唯一の正統仏典(正典)などとは、とても言えない。一昔前は、パーリ仏典こそ、唯一のお釈迦様(ゴータマ・シッダールタ)の直説[じきせつ]が記された経典であると言われていたが、実際に研究が進むと、全く事実は異なっていたのである。

そもそも、実在のゴータマ・シッダールタの沈黙の説法(いわゆるテレパシーだが、テレパシーを超越した思考の直接的伝達、概念的理解及び完全なデュプリケートをもたらす)は何語でもないのだ。


➂「パーリ仏典は、死後の世界等の形而上学的な事柄や神秘的な事柄を一切説いていない。ゴータマ・シッダールタは、人間の死後の問題を戯論[けろん]と断じ、無記[むき]を唱えてお答えにならなかった。このように、パーリ仏典は、因果の道理や諸行無常を説いた、論理的で科学的な教えである。パーリ仏典には、当たり前のことが当たり前に説かれている。ゆえに、ゴータマ・シッダールタの教えは、宗教ではなく哲学であり、現代的も納得できる常識的なものである。

一方、大乗仏典は、パーリ仏典と説かれている中身が乖離[かいり]しており、荒唐無稽であり非科学的である。信ずるに値しない。パーリ仏典と異なる(相反する)ことを説いている大乗仏典は、非科学的・非論理的な非仏説である。」


〈破折〉

例えば、パーリ仏典群において、ダンマパダ(法句経)やスッタニパータにも来世は説かれているし、空中に浮かんだ、生前に極悪人だった死霊が霊的な鳥に霊体を食いちぎられる様子なども説かれている。パーリ仏典において、来世や輪廻転生は自明の理であった。それだけでなく、“物理的な”空間としての地獄の有様が詳細に説かれている。

大乗仏典はパーリ仏典のコンテンツをベース(前提及び材料)としているために、パーリ仏典正典論が生じた。パーリ仏典と大乗仏典は、表現形式が異なるだけで、どちらも後世の創作である。両者の違いは、パーリ仏典は教義をゴータマ・シッダールタを用いた言葉で表現し、大乗仏典は教義を視覚的かつ文学的に、つまり、ドラマチックに表現しているということである。大乗仏典は奇想天外で荒唐無稽だから偽の経典で、パーリ仏典こそが唯一の正典であるという桐山・阿含宗並の主張は、既に時代遅れである。

大乗仏典の奇抜さは、教義の視覚的な表現である。しかし、「事実は小説より奇なり」である。現存するどの仏典にも、ゴータマ・シッダールタの雄弁な沈黙の説法(「沈黙は言葉以上に雄弁に語る」)も、千里眼を用いて入門者をターゲティングしたことも、解脱者の不食能力ゆえに托鉢は形式的なもので、本来は不要だったことも書かれていない。

もちろん、パーリ仏典が仏教の正典たり得ないからといって、大乗仏典が仏教の正典たり得ることにはならない。

大乗仏典には諸仏という言葉が存在するが、パーリ仏典においてさえ、仏(仏陀)という言葉は固有名詞(ゴータマ・シッダールタ)のみではなく、複数形の普通名詞としても用いられていた。ゆえに、究極的には、経典の価値は誰が書いたかではなく、書かれた内容が真実・真理に即しているか否かで決まる。

しかし、今日に至るまで、現存するパーリ仏典及びテーラワーダ仏教と大乗仏典及び大乗仏教ともに、凡夫をして一生涯の間に解脱/悟り/涅槃に至らしめるという、宗教的な実証(正法たる現証)は存在しないのである。

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