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f6094fa2 anonymous 2023-02-05 00:03
>>e9b1d7c9

まず、ブルジョア革命という概念がまやかしだ。ブルジョア革命という(社会科学の)用語は、統治形態と生産様式を分離していない。ブルジョア革命は、資本家階級(ブルジョアジー)の政治支配を意味するが、国家権力と資本家階級の経済的支配の確立は別物である。また、ブルジョア革命の対概念であるプロレタリアート革命は、現実の歴史として実現されてはいない。

フランス革命(法の支配の破壊)とアメリカ独立戦争(法の支配の確立)の性格は全く別物である。これを、同じブルジョア革命で括るのはとんでもなく粗雑な“マルクス教”の思考である。合衆国憲法は、現存する(現役の)最古の成文憲法である。

フランス革命における憲法は使い捨ての憲法である。ジャコバン憲法は、ロベスピエールによってその施行を無期限に延期された。独裁者の恣意こそが最高の法であった。この憲法空位の無法状態の期間に、独裁者の恣意を国民に強制する恐怖の国家機関が設立された。それが、革命(人民)裁判所と公安委員会である。この革命裁判所と公安委員会は、フランス中にテロルと殺戮をもたらした。これのいったいどこが、自由をもたらす“民主主義”革命なのか?

では、なぜフランス革命は圧政とテロルで終わったのか?なぜ、憲法空位が許されたのか?それは、法の支配を破壊する、人民主権論とルソー流の「一般意志」に基づく民主主義至上主義によって、「憲法制定権力」なる三権を超越した国家権力機関の存在によってである。憲法制定権力とは、軍事クーデターで国家権力を掌握した軍部が設置する「国家●●評議会」のようなものをイメージしてもらえばわかるだろう。

憲法制定権力が制定した憲法は、憲法の名こそ関しているが、実際には寿命数年か憲法空位の使い捨て憲法であった。立法権絶対の独裁で始まったフランス革命は、最終的に、行政権絶対のナポレオン独裁体制で終わることになる。憲法制定権力なる絶対権力機関が存在する限り、いかなる憲法も名ばかりのものとなる。後の旧ソ連・東欧諸国の共産党という名の絶対権力がそうであったように。

マルクス/エンゲルスの述べた、「プロレタリアートの執権(ラテン語のディクタツーラ)」とは、分立された国家権力の各部分(三権)ではなく、共産党(共産主義者同盟)が国家権力の全体、つまり全権力を握るということを意味している。これは、英米法流の自由保守主義に基づく法の支配の破壊である。

社会主義法は大陸法の亜流であるが、大陸法は人定法至上主義に基づく法治主義であり、英米法流の法(≠人定法)の支配を軽視する。マルクス/エンゲルスの法概念は権力の道具としての法である。すなわち、大陸法の人定法至上主義を借用した、「プロレタリアート(という名の共産党[共産主義者同盟])の執権」、これが、旧ソ連・東欧の社会主義諸国において、共産党の絶対権力により国民の自由がことごとく蹂躪された歴史の根本的な元凶である。

ヒトラーおよびナチス・ドイツの統治を法の支配を破壊する「命令法学」によって正当化(弁護)した、詭弁法学者のカール・シュミットによれば、「過去から未来に渡る民族共同体の慣習たる法(≒國體)こそが憲法であり、ドイツ第三帝国の総統たるアドルフ・ヒトラーは、この民族共同体の全ての法の法源に由来し、民族の意志を体現する指導者である」という。

「私は、議会の信任によって国民の代弁者としての地位と権限を与えられた。ドイツ国民の言葉が私の言葉である。ドイツ国民のみに私は従属する。」(A・ヒトラー)

これは、ルソーの云う典型的な一般意思に基づく統治の表明である。即ち、一般意思の体現者がヒトラーであり、その権威は民主主義によって担保されていた。ナチス・ドイツは、民主主義至上主義の極左思想家であるルソー流の「一般意志」と反動保守の「國體」観念との悪魔合体である。

極左思想の「一般意志」と極右思想の「國體」観念は、その底流(すなわち、為政者による法の支配の破壊)において共通である。この極左と極右の悪魔合体こそが、ヒトラーとムッソリーニによる法の支配の破壊の正体である。

ムッソリーニもヒトラーも、ボナパルティズムの亜流であり、ナポレオンの劣化コピーの域を出るものではない。このような人定法の命令を至上の法と看做す統治は、英米法流の法の支配の破壊そのものであり、ボナパルティズムとフランス革命のイデオロギーは、法の支配の破壊という本質において同一である。

カール・シュミットの詭弁を、合衆国憲法起草者であるアレクサンダー・ハミルトンの『ザ・フェデラリスト』における「司法部の権能と判事の任期」よりの引用と比較してみよう。

「権力を制限する憲法とは、立法権に対して特定の例外、例えば私権剥奪法とか事後法などを通過させてはならないことを規定した憲法を意味する。この種の権力制限は、憲法の明白な種子に反する一切の立法行為を無効であると宣言するのが裁判所の義務なのである。」

「立法行為を、憲法に違反しているがゆえに無効と宣言する裁判所の権利(※違憲立法審査権)に関して、【この理論は結局のところ、司法部の立法権に対する優越を意味する】。」

この立法権に対する司法権の優越たる違憲立法審査権が存在しなければ、法の支配は成立しない。

重要なことは、司法権にコモン・ロー審査の権能が与えられていることである。合衆国憲法が初めて規定した司法による違憲立法審査権は、エドワーズ・コーク卿の『コーク判例集』の「コモン・ローは制定法に優位する」との法理を発展的に継承したものである。

法の支配の担保とは、為政者の権力の肥大化(権力欲の暴走)を抑制するのみならず、法律(人定法)の制定者たる為政者にコモン・ローを含む法≒ノモスの縛りを課すで、為政者の立法者としての権能と裁量を最小化させることである。

すなわち、法律(人定法)の制定者兼警察権の行使者たる為政者には、コモン・ローの審査員たる権能は与えては絶対にならないのである。ノモスの裁定権は、国民でも為政者でもなく、司法権に付与されるべきという立場が、ハミルトンの立場であり、コーク卿の本意でもある。

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